lib14's TRPG library

TRPGに関するメモや随想など

参加性

 TRPG者どうしの合図とか呼吸とか、そういったものがある。車を運転しているときに、道を譲ってくれたお礼にハザードランプを点けたり、「お先にどうぞ」の意味でパッシングを送ったりする。ルールには明記されていないが、そういう空気が実際にはあるわけで、ルールブックを読んだだけでは理解し得ない価値というものがある。リプレイは、そういった空気を伝えるという役割も担っているが、全てを伝え切れているとは思えない。
 セッションという言葉はジャズの用語として使われるが、彼らは即興で演奏(Play)を楽しみ、腕を磨き合うことを楽しみとする。そうした中で自分の腕前を知り、また人の優れた演奏に触れたり、観客との交流を楽しんだりする。観客の中に優れた演奏家がいれば、そういう人からアドバイスを貰うという貴重なチャンスにも恵まれる。
 我々はTRPGに出会いを求めているのかも知れない。それは「居場所」であると同時に、「旅先」でもある。我々が所属するTRPGサークルは「居場所」としての側面が強い。気の合う仲間と結成したクランは「自分はここに居ていいんだ」という基本的自尊感情を育む拠点として大切にすべきものだ。一方でコンベンションは「旅先」としての側面が強い。未知のプレイヤーと出会い、腕を磨き合う。ただ、数多くのコンベンションを渡り歩くようになると、知り合いも増えていき、気づけば全国どこに行っても仲間がいるような状況になってくる。そうなってくるとTRPG業界そのものが「居場所」になるのである。
 あちこちに仲間がいる人間にとって、セッションは同窓会のようなものである。暫くぶりに会う仲間は、「気の合う仲間」であると同時に「新しい価値をもたらしてくれる他者」でもある。楽しかった思い出、苦しかった思い出を共有できる仲間がいることは素晴らしいことで、語りぐさとなるようなセッションのエピソードを積み重ねることが喜びなのだ。
 セッションの場では、ネットスラングやオタク的なジャーゴンが飛び交うこともしばしばある。TRPGの背景世界のモチーフとなっているイメージが、映画やアニメあるいはコンピュータゲームから借用したものも多く、オタクとTRPG者の親和性も高いのだろう。またギリシャ神話やSFの背景にある科学論文などをちゃんと学術的に学んだうえでTRPGを遊んでいる人は少数派だろう。そういった背景をもつエンターテイメント作品を下敷きとして、あくまでサブカルチャーとして楽しむ態度が一般的だと思う。そのうえで、断片的に学術的領域に首を突っ込んでいくというスタンスの人も多いことだろう。
 我々にとって、TRPGを楽しむうえで、サブカルチャーやその背後にある学術的領域に対して、関心をもつことは重要である。ルールブックに書いてあることしか知らないようでは、参加者の会話についていけないし、GMが何かに喩えて説明しようとしても、その喩えが分からないと困る。想像力をはたらかせたり、物語を創造したり、一緒に遊ぶ仲間を楽しませたりする上で、様々な文化に触れておくべきなのだ。
 しかし、自分が知らない話題で盛り上がられると不愉快なものである。知らないものは仕方ない。倫理的な我々は、一般的に知られていないようなマニアックなネタをいきなり振るようなことはしない。時事ネタ、有名なネタ、世代に合ったネタなど、一般的な話題から入り、様子をみていく。自分の世界に閉じこもっている人間がいかに歯痒いか。だからこそ、参加性を求めるのである。
 我々は卓の中で派閥をつくられ、自分が孤立してしまうことが嫌いだ。自分が参加したことのない卓の話題で盛り上がられても不愉快である。だからこそ、孤立しているようなプレイヤー、発言が少ないプレイヤーのことが心配になってくる。倫理的な我々は、色んな人に声を掛け、積極的に卓に関わるように勇気づけたいと思っている。
 我々は「初心者だから分からないよね」とか「世代が違うからついていけないよね」とか「○○さんが参加していなかった時の話ですね」などと言われたくない。だったら、そういう話題は切り出さないで欲しいし、そういう話題を切り出すつもりなら、はじめから私抜きで楽しんで欲しい。もし私に不満があって意地悪をするのならば、どこを直せばいいのかちゃんと教えて欲しい。
 我々にとって仲間は宝である。初めて出会ったメンバーどうしで連絡先の交換ができたら、その卓は成功したと思うほどに。卓を立てたいけれどメンバーが足りなければ卓は成立しない。TRPGは仲間がいなければ始まらないということをよく知っている。仲間を増やすことと、仲間との関係を良好にすることが、セッションを楽しむ上で最も重要であることを知っている。疎外感や孤立感は遠ざけるべきで、仲間として認められることが大切なのである。PCの名前をちゃんと覚えてもらいたいし、「面白い」という感覚を共有したいのだ。

創造性

 ゲームが映画と異なるのは、プレイするたびに結果が変わること。そしてプレイする人によって結果が変わること。コンピュータゲームはプログラムの範囲でしか結果が変わらないが、TRPGは各自の想像力とGMの裁定能力に依存して変化の範囲は拡大していく。プレイヤーはキャラクターを創造することにより、GMはシステム(処理のあり方)を創造することにより、そしてダイス目によって「私たちだけの物語」が創造されてゆく。
 我々は、決められたルートを辿るだけの物語に不満を感じる。選択肢のない戦闘、キャラクターの個性が反映されないNPCとのやり取り、工夫の余地のないエンディング。他の卓と同じ物語しか体験できないのならば、小説を読むのと同じである。我々は唯一無二の体験に心を躍らせる。
 このシナリオで、このメンバーで、この会場で、このセッションで得られる一期一会の体験に自分が関われること、その喜びを噛みしめられる瞬間が何より尊い。それぞれの個性がぶつかり合うセッションの場に、自分という個性がどう影響を与え、混ざり合い、調和するのかを見守る自分もいる。
 我々の中には、リプレイ、セッションレポート、イラスト、SSといった成果物としてセッションの体験を具現化したい欲求をもつ人もいる。それは当然のことで、我々は多かれ少なかれセッションに対して「成果」を求める。我々はセッションの内容を空想だけに終わらせておくのは勿体ないと感じている。ロールプレイの内容が、キャンペーンの次のシナリオのネタとして活用されたり、独立したイラストとして価値をもったり、参加者や見学者に笑いや感動を与えたりすることに喜びを感じる。
 テストプレイは、シナリオを(あるいはゲームシステムを)より良いものへと改良するためのプレイである。我々がテストプレイに参加するのは、プレイを通じて、ストーリーの良し悪しや、ゲームバランスや遊びやすさなどについて建設的な意見を生み出すためである。他に選択肢がある中で敢えてテストプレイに参加することの意義は、創造性に他ならない。新しいシナリオ、新しいシステムが生み出される瞬間に立ち会える喜びを我々はよく知っているのである。
 創造性を求めるあまり、「出オチ」のような突飛なキャラクターを演じ、反感を買うプレイヤーもいるが、倫理的な我々は、それが役割性、参加性、体験性を損なうプレイングであることを理解している。真の創造性は、節度と卓に対する敬意がなければ成立しない。
 また、キャラクターの個性を追求するあまり、パーティにとって不利な行動を取ろうとするプレイヤーもいるが、倫理的な我々は、それが攻略性、役割性を損なうプレイングであることを理解している。もしそれが他の参加者にとっても魅力的に映るならば、他の参加者たちは私のプレイングに賛成してくれるはずである。もしそうでないのならば独り善がりの創造性に過ぎなかったということだ。
 創造性を発揮するには、映画やアニメに登場する憧れのキャラクターを「だたやりたかった」という理由で演じるだけでは通用しない(気の合う仲間なら別だが)。そうではなく、そのキャラクターを自分がどのように捉えているのかを軸にして、相手に分かってもらえるように表現することに意義がある。そうでなければ元ネタを知らない人には通用しないキャラクターになってしまうからである。
 我々はキャラクターの設定や演出を考える上で、独創性と認識性のバランスを考える。認識性とは「○○というアニメに登場した××というキャラクター」のように、卓の参加者の間で理解されているイメージを利用する態度である。「熱血」「ツンデレ」といった属性によって認識されている場合もある。一方で独創的なキャラクターはイメージを伝えるのが難しい。文学や芸術の教養を踏まえて丁寧にキャラクターを描かなければならないからだ。ただし、そういうことばかりをやっているとセッション時間を多く占有してしまうことになってしまう。両者のバランスを考えることは、純粋な創作活動とは違って、TRPGならではの楽しみといっていいだろう。

体験性

 アニメの主人公が不思議な力を使って悪い奴をやっつけるのを見て、「僕もやってみたい」と思ったことはないだろうか。「自分ではない誰かになってみたい」という変身願望を叶えてくれるゲームがあるとしたら、どんなに素晴らしいことだろうか。我々にとってTRPGとは、まさに非日常を体験させてくれる夢のようなアトラクションなのである。
 我々がキャラクターになりきるのは、世界観を壊したくないからである。日常から逃れてセッションという夢の一時を大切にしたいから、ゲームの世界を一生懸命に感じるのである。GMの芝居がかったナレーションや、盤面のリアルなフィギュア、雰囲気が出ているルールサマリ、美しい多面体のダイス、さり気なく流れるBGM、そういったものが心をときめかせ、我々を夢の世界に誘ってくれる。
 我々が、ゲームシステムと物語の繋がりを理解したとき、より深くゲームを体験しようと感じる。2d6の結果が人の生き死にに影響を与えると知ったとき、物語に感情移入し、攻略性や役割性を意識する。剣を振るうことと、ダイスを振ることが同一視できたとき、我々は真にゲームを体験する。
 我々は葛藤を楽しむ。GMが「姫を助けるか、村を救うか」という二択を迫ってきたとき、真剣に悩むだろう。それまでのセッションで物語にどれだけ感情移入してきたかで葛藤の重みが違ってくる。結論を下すにせよ、下さないにせよ、我々にとってこの引き裂かれるような思いは素晴らしいゲーム体験なのである。
 新しいサプリメントを買うと、我々はすぐにでも遊んでみたいと思う。追加クラス、追加アイテム、新しいワールド、そういったものを駆使して新しい冒険に出てみたいと思う。我々は新しい刺激、驚きと発見、出会いを求めている。宝箱は開きたいし、NPCとは絡みたい。手に入れたレーザー銃は撃ってみたい。果たしてこいつはどれだけ威力があるものなのか、ワクワクが止まらない。
 我々にとって物語は体験から得るものである。シナリオに何と書いてあるかは関係ない。ともかくPCが見て、聞いて、感じたことが全てなのだ。セッション中に描写されなかったことは我々にとっては、考慮の対象から外される。ある程度メタ読みはするけれど、GMが何を考えているかまで読みはしない。それよりも目の前で起きている出来事を感じることの方が楽しいのだ。
 我々は夢を壊されることを嫌う。先読みやネタばらしは、心の中で「もしかして?」と思うものであって、口に出すべきものではない。特にGMにそんな事を言われると興が冷める。GMはプレイヤーの先読み発言に対しては「さてね?」と受け流して欲しい。
 ところで、TRPGがリソース管理を伴うゲームであることを鑑みると、セッションの見通しが立てられないことは問題である。ミステリアスであることは魅力だが、情報が与えられないだけの五里霧中な展開はストレスが溜まる。我々は単なる傍観者ではない。キャラクターの立場で何らかの問題解決に臨むプレイヤーなのだ。異世界を全て探検した後には、我々の手で作られた地図が握られていることが望ましい。その地図を携えて問題解決に臨むのだ。そして全てのエピソードが回収できたとき、地図は完全な物語となって我々の記憶の中に大切にしまわれる。
 映画において視聴者は傍観者だ。感情移入はあっても、介入はない。ゲームにおいてプレイヤーは参加者だ。感情移入も、介入もある。世界に埋め込まれたストーリーを自分の立場で感じることができる。これが魅力なのだ。
 倫理的な我々は、受け身の立場で傍観者になることなく、どのような状況になっても、全力でそれを受け止め、楽しみ、対応していくつもりだ。
 ゲーム体験を通じて、我々はキャラクターの視点を獲得し、ゲームのルールを憶え、物語を自分のものにすることができた。これらはセッションを通じて自分自身の中にインストールされていく学びの断片であり、セッションが我々にもたらしてくれたおみやげなのである。

遊戯性

 TRPGというのは自由な遊びである。キャラクターを通じてゲーム世界に影響を与え、その場を面白くしていきたいという気持ちが根本にある。我々は悪戯者で、出しゃばりで、エンターテイナーである。PCの行動によってゲームが、物語が変化していく様子を観察するのが愉快なのである。
 我々はGMの思惑通りに事態が進展してゆくことを好ましく思わない。GMを一人のプレイヤーの座に引きずり下ろし、一緒になってゲームを楽しんで欲しいのだ。だからGMの考えていることを予想し、裏をかいて、GMをあっと驚かせようとする。その驚きの表情を見ることがたまらなく楽しい。「しめしめ、してやったり」というわけだ。
 我々は行動に対して結果を求める。宝箱を開けるのは、アイテムを手に入れても嬉しいし、罠にかかっても面白いからだ。だから最悪なのは、宝箱に何もなかったというオチである。「何もないんかい!」とツッコミを入れて場を和ませるぐらいしかやることがない。
 慎重になりすぎて事態が進展しないことをもどかしく思うし、失敗したら失敗したで、それを面白可笑しく受け入れればいいんじゃないかと思う。真剣に楽しむことと、堅く考えることは違う。TRPGのプレイングに「~~しなければならない」ということはないと思う。自分が楽しいから遊ぶのであって、その楽しさを互いに分け合ったら更に楽しくなるはずだ。誤解や思いこみのせいで自由なプレイングを抑圧することは誰のためにもならない。知恵と工夫によって状況を打破するのは良いプレイングである。
 我々が重視するのは頭の良い悪いでもなければ、ロールプレイの巧拙でもない。常識が分かっているかどうかでもない。TRPGを真剣に面白いものにしていこうとする情熱なのだ。私のアプローチに対して、相手がどれだけ真摯に受け止めてくれたかが重要なのだ。
 場を引っかき回したり、他のPCにちょっかいを出したりするのが好きだが、それらは全てゲームを通じたコミュニケーションだ。プレイヤーとして受け答えしようが、PCとして受け答えしようが、どちらでもよい。大事なのは受け答えがあることなのだ。
 正しくやりたいと思っているプレイヤー、正解を選びたいと思っているプレイヤーは、間違ってはいない。けれど、そのせいで楽しくやれないのなら間違っている。TRPGに正解なんてない。我々が選んだ答えが常に正解なのだ。なぜなら我々はその一瞬その一瞬を楽しんでいると自信をもって言えるからである。イカすGMなら、うまく帳尻を合わせて我々の出した答えを評価してセッションに反映させてくれるはずだ(ダイス目を誤魔化すということではない、念のため)。
 我々はGMから一方的に楽しませてもらおうとは思っていない。楽しみは自分で見つけるものだし、GMに提案することだってする。とはいえ、GMが面白いことを提案してきたらノリノリでそれに乗っかるという態度も忘れてはいない(もっと面白くしてやろうとは思うが)。
 我々のことをマナーの悪い連中だと考える人もいるだろう。確かにノリと勢いを重視して、他のプレイヤーを置いてけぼりにしてしまうのは良くない。それからルールを拡大解釈して自分の都合のいいように受け止めるのもやり過ぎだ。「グレーならば、ブラックではない」というスタンスが、真剣勝負を楽しんでいる人の不興を買うこともあるだろう。倫理的な我々は、もちろん他のプレイヤーに嫌な思いをさせたくないし、対応できないGMに無理矢理アドリブを求めたりもしない。けれど、周りに歩調は合わせるが、こっちの世界に来て欲しいと心の底では思っている。
倫理的な我々は合理的な理由でシナリオを崩壊させることはあっても、セッション崩壊を目論むような事はしない。GMが用意してきた素材、他のプレイヤーが用意してきた素材は、活かしてあげないと勿体ないではないか。

価値六相と深層欲求


 VCに対して深層欲求の三角形を重ねることができるだろう。深層欲求は[支配欲求][承認欲求][成長欲求]の3つである。

  支配欲求: 場をコントロールしたいという欲求。
  承認欲求: 誰かに認めてもらいたいという欲求。
  成長欲求: 能力を拡張し強くなりたい欲求。

 遊戯性、攻略性、役割性は[支配欲求]に根ざしている部分がある。役割性、参加性、創造性は[承認欲求]に根ざしている部分がある。創造性、体験性、遊戯性は[成長欲求]に根ざしている部分がある。例えば遊戯性を求めるプレイヤー心理の根底には[支配欲求]と[成長欲求]があるという意味になる。
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 特に攻略性、参加性、体験性は3つの深層欲求のうち、根源的な部分の影響を受けやすい。攻略性の要求する「ゲームに勝つ」あるいは「望ましいエンディングを迎える」という指向性は、場をコントロールする支配欲求の性質に合致し、分かりやすい。プレイヤーは挑戦しがいのある困難に直面し、それを克服したとき、達成感を得ることになるだろう。
 参加性の要求する「ダイスを振る」「宣言をする」は、必然的に自分の行動を人に見てもらえる場面である。承認欲求を満たす最も簡単な方法は、その人にターンを回すことである。ターンを回すということは、カラオケでマイクを回すようなものである。ターンが回ってきたプレイヤーはダイスを振ったり、宣言をしたり、セリフを喋ったりする機会が与えられる。これは基本中の基本と言ってもいいだろう。
 体験性の要求する「世界観を味わう」「新しいサプリメントを使う」は、成長欲求を満たす最たる手段である。それによってプレイヤーは新しく学ぶことや、新しく感じることがあるはずである。「とにかく遊んでみよう」という気持ちが大切なのである。
 これら3つの欲求は、プレイヤーの満足度を評価するための指標として使う。ストレスの多いプレイヤーは深層欲求が満たされる場面が多く訪れることを期待し、ストイックにゲームを嗜むプレイヤーは深層欲求が満たされない緊張状態に白熱する。満たされる状態と満たされない状態が交互にやってくることで、スリルとカタルシスの両方を楽しむことができる。どちらに比重を置くか、また、どのような頻度で交代を繰り返すのが心地良いかはプレイヤーの嗜好による。スリルとカタルシスの交代劇をどう描くかという問題は、エンターテイメントとしてのゲームをデザインする上で重要なポイントである。

深層欲求が満たされる具体的場面の例

支配欲求

  • 依頼人に感謝される
  • 考えた戦略が功を奏した
  • 強いマジックアイテムが手に入る
  • 巨大な悪が滅びて世界が平和になる

承認欲求

  • PCの見せ場がある
  • PCの設定が拾われる
  • PCが名前で話しかけられる
  • セッション終了後に連絡先の交換をする

成長欲求

  • ネタバレがない
  • 失敗しても許される
  • 思いがけない発見があった
  • 知らないことを知ることができた

深層欲求が満たされない場合の問題行動

 深層欲求が満たされない場合、セッションを退屈に感じるだろう。依頼人から感謝の言葉がなかったり、報酬を出し渋られたりすると脱力感を覚える。結果を出したにもかかわらず評価されないからだ。あるいは、PCが名前で呼ばれなかったり、ダイスを振る機会が与えられなかったりすると疎外感を覚える。助言が多すぎたり、不確実性がなかったりすると、夢もロマンもなくなってしまう。
 支配欲求が満たせなかったプレイヤーは、GM裁定に対して文句を言い続ける、NPCに対して暴言を吐くなどの問題行動を起こしやすい。また慢性的に支配欲求が満たせない状態が続くと、プレイングの目的がシナリオ崩壊や度を超した口プロレスによる場の支配にすり替わってしまう。
 承認欲求が満たせなかったプレイヤーは、セッション中に寝る、自慢話を切り出す、スマホを弄るなどの問題行動を起こしやすい。また慢性的に承認欲求が満たせない状態が続くと、自分の殻に閉じこもったキャラクターを作ったり、GMやセッション時間を独占したりするようになる。またセッションに関係のない雑談も増える。
 成長欲求が満たせなかったプレイヤーは、他のプレイヤーに役割を押しつけたり、ミッションに失敗したことを、適切にバランスをとらなかったGMのせいにしたりする。また慢性的に成長欲求が満たされない状態が続くと、持論を譲らない頑ななプレイヤーになってしまうか、自分のPCに独自の「縛り」を設けて、相談なくパーティに不利な行動をとるなど、他のプレイヤーを巻き込むようなプレイングに走ることがある。
 プレイヤーの欲求を満たせないシナリオ、言い換えれば、プレイヤーの期待に添えないシナリオは、プレイヤーの問題行動を誘発するという点において、良くないシナリオである。プレイヤーの期待に添うというのは、プレイヤーの読み通りであることとは違う。「期待は裏切るな、予想を裏切れ」である。
 プレイヤーの欲求を満たせないことのもう1つの問題点は、間違ったプレイングを学習させてしまう点にある。間違ったプレイングを学習したプレイヤーは、欲求が満たされない屈折した気持ちを他の卓に持ち込もうとする。ここでいう「間違ったプレイング」とは、単に(その場にいる)同卓者を不快にさせるプレイングのことを指している。「問題行動」と同義である。

誤解に基づく問題行動とトラブルの回避

 一方でゲームとしてプレイヤーが判断を誤ったり、公正なランダム判定の結果、敗北したりする場合においてもフラストレーションが溜まることがある。この種のフラストレーションの原因はシナリオやマスタリングのせいではない。少なくともマスタリングのせいではない。前述したようにシナリオやマスタリングの不備による不満を[合理的不満]、そうでない不満を[非合理的な不満]と呼ぶことにする。
 どこまでを[合理的不満]と呼び、どこからを[非合理的不満]と呼ぶかは、倫理的議論の対象である。例えば「GMはダイス目を誤魔化すべきか」といった問題がそれに当たる。本論ではそこには踏み込まず、読者が暗黙の前提として想定している境界線があるものとして議論を進める(つまりこの分類の境界線は個々人の主観に依存する)。
 [非合理的不満]にはプレイヤー自身の問題と、時間制約やゲームシステムの不備、ダイス目など、誰の責任でもない問題の2種類がある。前者を[自己原因型の不満]、後者を[環境原因型の不満]、そして[合理的不満]を[他者原因型の不満]として整理しよう。

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プレイヤーは[自己原因型の不満]については、一切不満を言うべきではなく、むしろ悔悟・恥・屈辱等を感じ、次回以降のセッションに向けての教訓を得るべき場面である。[環境原因型の不満]に対しては、TRPG文化の発展のため、不満を口にするのは間違っていないが、そこのことでGMや他のプレイヤーを不快にさせるようなことをしてはいけない。
 問題なのは不満の原因について認識が食い違うことである。例えばプレイヤーが不満を感じたとき、GMは「それはシステムの問題だから仕方ない」と反論したとしよう。それに対してプレイヤーは「じゃあ、何でそんなシステムを選んだんですか!」と不満を露わにする場面だ。GMは[環境原因型の不満]だと思っているので自分に不手際はないと信じているし、プレイヤーは[他者原因型の不満]だと感じているので、開き直っているようなGMの態度が許せないのである。
 このような場面では、互いに相手の立場や気持ちを慮り、それぞれが落としどころをつけなければ、TRPG仲間として関係を継続させていくことが困難になる。ゲームは人を熱くするし、感情移入の度合いが高ければ高いほど、余計に不満も大きくなる。こういう場合、最も冷静でいることが求められるGMが先に折れる方がうまくいくことが多い。
 GMは[合理的不満]が起きないように気をつけることが必要であると同時に、プレイヤーが抱きやすい[非合理的不満]に対して積極的にケアをする態度が求められる。もしかすると[非合理的不満]を[合理的不満]と取り違えてしまうプレイヤーが精神的に未熟であるように映るかもしれないが、そのように誤解させてしまった自身の態度を振り返るべきなのだ。重要なのはどちらが「正しいか」ではなく、プレイヤーの不満を取り除き、セッションをメンテナンスし、プレイヤーの満足を高めることである。議論で相手を論破してもセッションに何の価値も生み出さない。GMが真に卓を支配できるのは、プレイヤーを満足させたときだけである。
 ただし例外がある。ある特定のプレイヤーの問題行動のせいで、他の多くのプレイヤーの満足度が下がっている場合である。こうした場合、問題行動を引き起こしているプレイヤーを説得し、行動を改めるように促す必要がある。
これは倫理(善悪)の問題としてではなく、政治(集団の意思決定)の問題として取り扱うべきである。「マナー違反だ」とか「それは求められているプレイングじゃない」とか「他人の迷惑を考えろ」とか「空気を読め」などと言ってはいけない。問題行動は、他の参加者から見たときにそう見えるだけで、本人にとっては問題行動ではないからだ。それを否定するならば、相手の尊厳を傷つけることになる。「あなたが悪い」ではなく「私が苦しい」というスタンスで行動を改めるように依頼するのが基本的なスタンスであるべきだろう。
 倫理とは、自身の尊厳が尊重される中で、「相手が不快に思っている」「自分が嫌な思いをした」「人に認められて気持ちよかった」などの経験を経て、個々人の中に形成されるものであって、誰かに押しつけられたり、誰かに押しつけたりすることは不可能なのである。自己の中にある基準として意味を持つものであって、集団としてどうあるべきかという問題に対しては無力である。ゆえに倫理観が対立したときは、感情論を持ち出す方がスマートといえる。どんな理論武装も、誠意ある心の叫びに勝つことはできない。