lib14's TRPG library

TRPGに関するメモや随想など

創造性

 ゲームが映画と異なるのは、プレイするたびに結果が変わること。そしてプレイする人によって結果が変わること。コンピュータゲームはプログラムの範囲でしか結果が変わらないが、TRPGは各自の想像力とGMの裁定能力に依存して変化の範囲は拡大していく。プレイヤーはキャラクターを創造することにより、GMはシステム(処理のあり方)を創造することにより、そしてダイス目によって「私たちだけの物語」が創造されてゆく。
 我々は、決められたルートを辿るだけの物語に不満を感じる。選択肢のない戦闘、キャラクターの個性が反映されないNPCとのやり取り、工夫の余地のないエンディング。他の卓と同じ物語しか体験できないのならば、小説を読むのと同じである。我々は唯一無二の体験に心を躍らせる。
 このシナリオで、このメンバーで、この会場で、このセッションで得られる一期一会の体験に自分が関われること、その喜びを噛みしめられる瞬間が何より尊い。それぞれの個性がぶつかり合うセッションの場に、自分という個性がどう影響を与え、混ざり合い、調和するのかを見守る自分もいる。
 我々の中には、リプレイ、セッションレポート、イラスト、SSといった成果物としてセッションの体験を具現化したい欲求をもつ人もいる。それは当然のことで、我々は多かれ少なかれセッションに対して「成果」を求める。我々はセッションの内容を空想だけに終わらせておくのは勿体ないと感じている。ロールプレイの内容が、キャンペーンの次のシナリオのネタとして活用されたり、独立したイラストとして価値をもったり、参加者や見学者に笑いや感動を与えたりすることに喜びを感じる。
 テストプレイは、シナリオを(あるいはゲームシステムを)より良いものへと改良するためのプレイである。我々がテストプレイに参加するのは、プレイを通じて、ストーリーの良し悪しや、ゲームバランスや遊びやすさなどについて建設的な意見を生み出すためである。他に選択肢がある中で敢えてテストプレイに参加することの意義は、創造性に他ならない。新しいシナリオ、新しいシステムが生み出される瞬間に立ち会える喜びを我々はよく知っているのである。
 創造性を求めるあまり、「出オチ」のような突飛なキャラクターを演じ、反感を買うプレイヤーもいるが、倫理的な我々は、それが役割性、参加性、体験性を損なうプレイングであることを理解している。真の創造性は、節度と卓に対する敬意がなければ成立しない。
 また、キャラクターの個性を追求するあまり、パーティにとって不利な行動を取ろうとするプレイヤーもいるが、倫理的な我々は、それが攻略性、役割性を損なうプレイングであることを理解している。もしそれが他の参加者にとっても魅力的に映るならば、他の参加者たちは私のプレイングに賛成してくれるはずである。もしそうでないのならば独り善がりの創造性に過ぎなかったということだ。
 創造性を発揮するには、映画やアニメに登場する憧れのキャラクターを「だたやりたかった」という理由で演じるだけでは通用しない(気の合う仲間なら別だが)。そうではなく、そのキャラクターを自分がどのように捉えているのかを軸にして、相手に分かってもらえるように表現することに意義がある。そうでなければ元ネタを知らない人には通用しないキャラクターになってしまうからである。
 我々はキャラクターの設定や演出を考える上で、独創性と認識性のバランスを考える。認識性とは「○○というアニメに登場した××というキャラクター」のように、卓の参加者の間で理解されているイメージを利用する態度である。「熱血」「ツンデレ」といった属性によって認識されている場合もある。一方で独創的なキャラクターはイメージを伝えるのが難しい。文学や芸術の教養を踏まえて丁寧にキャラクターを描かなければならないからだ。ただし、そういうことばかりをやっているとセッション時間を多く占有してしまうことになってしまう。両者のバランスを考えることは、純粋な創作活動とは違って、TRPGならではの楽しみといっていいだろう。