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TRPGに関するメモや随想など

体験性

 アニメの主人公が不思議な力を使って悪い奴をやっつけるのを見て、「僕もやってみたい」と思ったことはないだろうか。「自分ではない誰かになってみたい」という変身願望を叶えてくれるゲームがあるとしたら、どんなに素晴らしいことだろうか。我々にとってTRPGとは、まさに非日常を体験させてくれる夢のようなアトラクションなのである。
 我々がキャラクターになりきるのは、世界観を壊したくないからである。日常から逃れてセッションという夢の一時を大切にしたいから、ゲームの世界を一生懸命に感じるのである。GMの芝居がかったナレーションや、盤面のリアルなフィギュア、雰囲気が出ているルールサマリ、美しい多面体のダイス、さり気なく流れるBGM、そういったものが心をときめかせ、我々を夢の世界に誘ってくれる。
 我々が、ゲームシステムと物語の繋がりを理解したとき、より深くゲームを体験しようと感じる。2d6の結果が人の生き死にに影響を与えると知ったとき、物語に感情移入し、攻略性や役割性を意識する。剣を振るうことと、ダイスを振ることが同一視できたとき、我々は真にゲームを体験する。
 我々は葛藤を楽しむ。GMが「姫を助けるか、村を救うか」という二択を迫ってきたとき、真剣に悩むだろう。それまでのセッションで物語にどれだけ感情移入してきたかで葛藤の重みが違ってくる。結論を下すにせよ、下さないにせよ、我々にとってこの引き裂かれるような思いは素晴らしいゲーム体験なのである。
 新しいサプリメントを買うと、我々はすぐにでも遊んでみたいと思う。追加クラス、追加アイテム、新しいワールド、そういったものを駆使して新しい冒険に出てみたいと思う。我々は新しい刺激、驚きと発見、出会いを求めている。宝箱は開きたいし、NPCとは絡みたい。手に入れたレーザー銃は撃ってみたい。果たしてこいつはどれだけ威力があるものなのか、ワクワクが止まらない。
 我々にとって物語は体験から得るものである。シナリオに何と書いてあるかは関係ない。ともかくPCが見て、聞いて、感じたことが全てなのだ。セッション中に描写されなかったことは我々にとっては、考慮の対象から外される。ある程度メタ読みはするけれど、GMが何を考えているかまで読みはしない。それよりも目の前で起きている出来事を感じることの方が楽しいのだ。
 我々は夢を壊されることを嫌う。先読みやネタばらしは、心の中で「もしかして?」と思うものであって、口に出すべきものではない。特にGMにそんな事を言われると興が冷める。GMはプレイヤーの先読み発言に対しては「さてね?」と受け流して欲しい。
 ところで、TRPGがリソース管理を伴うゲームであることを鑑みると、セッションの見通しが立てられないことは問題である。ミステリアスであることは魅力だが、情報が与えられないだけの五里霧中な展開はストレスが溜まる。我々は単なる傍観者ではない。キャラクターの立場で何らかの問題解決に臨むプレイヤーなのだ。異世界を全て探検した後には、我々の手で作られた地図が握られていることが望ましい。その地図を携えて問題解決に臨むのだ。そして全てのエピソードが回収できたとき、地図は完全な物語となって我々の記憶の中に大切にしまわれる。
 映画において視聴者は傍観者だ。感情移入はあっても、介入はない。ゲームにおいてプレイヤーは参加者だ。感情移入も、介入もある。世界に埋め込まれたストーリーを自分の立場で感じることができる。これが魅力なのだ。
 倫理的な我々は、受け身の立場で傍観者になることなく、どのような状況になっても、全力でそれを受け止め、楽しみ、対応していくつもりだ。
 ゲーム体験を通じて、我々はキャラクターの視点を獲得し、ゲームのルールを憶え、物語を自分のものにすることができた。これらはセッションを通じて自分自身の中にインストールされていく学びの断片であり、セッションが我々にもたらしてくれたおみやげなのである。